昭和44年05月26日 夜の御理解



 信心をさせて頂く者の喜びの生活と、喜びの毎日を過ごさして頂く事。今更言うのもおかしい位ですけれども。実際に信心をさして頂いてから、本当に喜びの生活をさして頂いておる者が、果たしてどの位あるだろうかと。やっぱり当たり前のようであっても、何故喜ばねばならないか、喜ばして頂くということがどんなに幸せなことか、という様な事を改めてね、私共はいつも検討してみなければいけないと思うんです。
 今日私午後からもう毎日の事ですけれども、足がこんなに私痛みますから、必ず誰かが足を揉んでくれるんです。今日も2番目の娘の愛子が足を揉んでくれて、もうこの足に触ってもらった途端に、有り難い気持ちが良いんですね。有り難うございますという訳です。もう本当にそのこれはこんなに足が悪い者じゃなからにゃ、こんなに気持ちの良いことは分るまいと。これはもうあの愛子が力いっぱいに押さえてくれ、もう汗ぶるぶるになって押さえてくれますから、普通で言うなら痛いぐらいだろうけども。
 私にとってはもうそれが何とも言えんぐらいに気持ちが良い。とてもとてもこりゃ足がこんなに悪うなからなければ、こんな気持ちの良いおかげは頂かれまいと言うて私は喜んでおりますもんですから、愛子が言うんです、「本当に喜ぼうと思やどこからでも喜べるんですね」って言う訳ですね。ですからもう本当に喜ばせて頂こうと、こう念願しておりますと神様はそこにもここにも、喜びの材料はいっぱい置いておって下さるのです。それ言わば私が足が痛いと。足が痛むと。
 その事だけを見たら難儀な事ですけれども、足が痛まなければとてもこんなに気持ちの良い、そのマッサージはして貰えない訳ですからね。私はそういう喜びの生活から、この信心生活というものは本当に分からして貰い、またその喜びには尽きぬおかげが頂けれるとも仰るのですから、本気でひとつ信心生活さして頂くならば、信心生活はそのまま喜びの生活だと分からして貰うて、どこの端からでも喜ばせて頂こうという気にならにゃいけん。今日もあるお年寄りが参って見えましてね。
 おばあさんが子宮がんで手術をされた。一時小康を得ておられましたけれども、段々悪くなって、これはもう80、やんがて80からの方でしたから、お医者さんはこの子宮がんで亡くなる時にゃもう、大変な苦しみを覚えるそうですね。もう脇から見ておられんぐらいに苦しむそうです。ですからもう難しかろうけれども、今晩あたりは随分苦しまれるだろうからと言うて、お医者さん言うて帰られた後に、それから何時間後に亡くなっておられますが、もうそれこそ痛いもすいいも何も言わんで。
 もう本当に大往生のおかげを頂いたとこう言うのです。「神様にちゃんとお取次ぎを頂いて手術さしてもらい、神様にお願いをしておったから、本当に安らかなお国替えが出けました」と言うて、まぁ今日お礼に出て見えてからです。私がもう本当に身内のそのおばあさんがこんなおかげを頂いたということを喜んでおりましたら、嫁さんが横から出て来てから、「そればってんあぁた死んでしまえやそれまでじゃんの」っち言うた。もう信心の無か者ばっかりは、どうにもしようもありませんとこう言われるんです。
 「死んでしまやぁ何にもかもなかじゃんの」と。ここにはねだから信心の、日頃喜びの稽古をさして頂いておかんとです、例えばそんな広大なおかげを頂いておっても、神様に対して相済まない様な事を、言うたり思うたりしなければなりません。本当に神様にお願いをさして頂いておったおかげで、お医者さんがあのようにもう苦しむ事は間違いない、もう息の切れる時には大変な苦しみをされると、これが普通だと。
 けれどもその苦しみも見らずに知らずに、亡くなっていったおばあさんの事を、本当におかげを頂いてお繰り合わせを頂いたと、喜んでおられるおじいさんの所へやって来て、嫁さんが「死んでしまえば、そればってんそこまでじゃないか」という様な事を言うというて今日また話されるんですよね。ですから本当に私共が、喜ばして頂く稽古を本気でしておかなきゃいけない。そして喜ぼうと思えばもうどこんでも、喜びは転がっておるということ。それこそ難儀があるからこそ喜べれるんだとね。
 例えて言うならば、ふんだんな水を使っておる人は水の有り難さが分らない。健康な人は健康の喜びが分らない様に、不健康であって却って健康の喜びを感じておる人。難儀をしておって却ってその難儀の喜びを分っていきよる人。もう本当に喜ばなければならない。私が足を揉んでもらって、もう本当に足にこう触ってもらっただけでまた実際に気持ちが良いです。「有り難うございます」が芯から根から出るです。それをまぁ愛子が言うんですね、「本当に喜ぼうと思えやどこからでも喜べるですね」という訳です。
 信心さして頂く者、そのどこからでも喜ばして頂こうという、人が喜べないところからでも喜ばして頂こうという、私はそういう願いを持って信心さしてもらう。もう何かもうとにかく不平不足の中にばぁっかりあるように思うておる人もあります。そうではない、もう喜ぼうと思えや喜びの中に、喜ばしてもらわなければおられない、おかげの中にあることを知っていくことが、信心がわかっていくということじゃないでしょうかね。
   どうぞ。